愛とは何かについて答えを見つけてみました
みなさん、こんにちは!
今日は愛とは何か、について答え を見つけるようなことになってしまったので、これについてお話ししようと思います。
ですが、最初から愛とは何か、について書こうと思ったわけではなく、きっかけは、自分の内面を見つめてみたら、、結果的にそこへたどり着いた、というわけなのです。
Contents
自分自身への問いかけ
自分自身に問いかけた設問は、
「幼児期に、私は世界をどう見ていたのか」というものです。
私の感情や行動の根底を支配しているものは、ものごころつく以前に形成されたものであると思いますので、できるだけ古い記憶をたどることから始めました。
兄弟との関係や親との関係を考えたあげくに、出てきた答えは、
「さびしい」
という感情でした。
この答えを、設問に対する回答という形で言い直せば、
「世界は自分に向いていてくれない」とか
「世界は自分を一人(孤独)にする」というものでした。
こんな世界観をもっていたら幸福であるはずがないし、幸福にはなれません。
どうにかして軌道修正しなければなりません。
まず、そもそも、この世界観って正しいのでしょうか?
正しいわけがありません!
世界は自分に向いていてくれない
「世界は自分に向いていてくれない」は正しくありません。
親はちっとも遊んでくれないし、構ってくれないし、怒ったり急かしたりするだけです。
でも、そこには何の意図もなかったはずです。
ただ、生活することに忙しくて自分のことに精一杯だっただけなのでしょう。
それなのに、親は私を愛してはいない、とか私を嫌っているなどと妄想したことが誤りだったのです。
いや、実際にはそうだったのかもしれないけれど、そう思うことは自分が子どものままでいるからです。自分が大人になるためには、そういう考え方を改めなければなりません。
世界は自分を一人(孤独)にする
「世界は自分を一人(孤独)にする」も正しくありません。
確かに親はいつも留守で、自分は一人でいることが多かったですが、そこにはなんの意味もありません。
自分は一人でいて、自由な時間をたくさんもらっただけです。
さびしい
「さびしい」
この感情は認めなければなりません。偽りのない感情ですから。
でも、過剰にそこに浸り続けることは避けたいですね。
それは、センチメンタルになってしまいます。
だったらどうするの?
と問わざるを得ません。
世界は、世界の意志によって、一方的に決まっていると思うから、寂しさから逃れられないのです。
自分から行動すれば、さびしいことは少なくなるはずです。
世界は自分に愛を与えてくれない
「世界は自分に愛を与えてくれない」
ふむふむ、確かにそう思っているかもしれないけれども、そもそも、愛って与えられるものではない、というのが私の考えです。
「自分は愛されるべき存在である」と思うのは、立場的な倒錯に加えて、愛そのものの性質を理解していないのかもしれません。
愛とは
愛とは、外から与えてもらうものではなく、
自分が創り出すものであり、自分から他者に与えるものです。
それが愛です。
自らが創り出すときにのみ、愛が出現するのです。
外から来るものは、単なる共感であり、暖かさであり、熱であり、喜びなどの波動や感情です。しかし、それは愛ではありません。
愛は自分から外に向かって放射するときにのみ、生じるものです。
これは愛の決定的性質です。
ただし、内から外に放射するものが愛だとは言っても、無理矢理に行動してしまっては、唐突すぎて愛の表現としての行動ではなくなってしまうかもしれません。
まずは、鳥が卵を温めるように、ゆっくりと、自分の中の深いところに、愛の萌芽を静かに温めることから始めてみたいと思います。
人は、子どもから大人になるときに、
人から共感を受ける存在から、人に愛を与える存在に成長していくのですね。
6歳の子どもの格言
最後に、この考え方をよく表していると思える言葉を紹介します。
なんと6歳の子どもの言葉です。
「愛についてもっとよく知りたいなら、あなたが嫌いな誰かを好きになることから始めたほうが良い」(ニッカ・6歳)